合格しないのは頭が悪いから?
第一志望を勝ち取るのは誰だろうか。天才か、努力家か。天才の努力家か。大学合格という一点に関していえば、トップ校といえども、圧倒的な知性は必要ないように思われる。無論、トップ校を首席級で合格するとなれば話は別だろうが。
大学に進学しようという気持ちがあるのであれば、それだけである程度の知性の証明になろうと思う。人は対象に憧れを抱くとき、多かれ少なかれその対象に匹敵し得ると予期するからだ。とんでもなくあほうであれば、大学に行こうとは思わないし、他に才能を見出すはずである。
同等の知性を有しているのに、どうしてみんな合格らないのか。合格らない人は何がいけないのか。それは、知性を誤った方向に利用しているからだ、と僕は思う。
正直な知性と不誠実な知性
言い訳をすることは、結果に理由をつけることである。それは一応知性のはたらきである。ここでの理由は事情といってもいいかもしれない。時間が足りなかった。苦手な範囲が出題された。本文は読めたが、問題が解けなかった。頭が真っ白になった。隣の席の受験者の鼻のすする音がうるさかった。
これらの事情は、突きつけられた結果の痛みを和らげる心理的効果があるように思われる。その代わりに鋭さを失った結果は君に何の成長も与えない。できないという罪がうやむやに許されてしまう。次に訪れる結果は何も変わっていない。君もまた同じ言い訳を繰り返す。これらは全て知性を完全に使いこなせていない例である。
一方で合格る人は、知性のナイフを磨きあげて、それを自分の胸に突き立てる。できる人ほど自分の不出来をよく認識している。できる人ほどまだまだできないと言う。そして更に伸びる。合格る人はみな謙虚である。彼らは血の味を知っている。
時間配分を意識していないから、時間が足りなくなる。苦手に処置を施さないから、大事に至る。本文が読めた人だけに解けるように設問は作られている。頭は真っ白にならない。隣の鼻のすする音程度のことで揺らぐ低い実力。不合格る人はみな、自分に甘い。
第一歩は正直になることだ。
正直とは、現象を正確に記述しようとする精神実態のことである。
B.F.S.の学習コンサルティングは、君のぬるま湯風呂に薪をくべ、焼き石を投げ込む。
《本当に変わりたいと思う》なら。