評論が読めない、小説が読めない、古文が読めない、漢文が読めない、英語長文が読めない、ないないづくしのお悩みをおもちではないでしょうか。
このお悩みの解決はもちろん、読めるようになることによって為されるわけですが、そもそも「読む」ということあるいは「読めている」という状態とは一体何なのでしょうか?
・「読める」ということは「分かる」ということである。文章の内容を理解することである
これが初めからできるのであれば、我々に悩みなどはなから存在しません。
この「分かる」という言葉も非常に厄介です。
そこで私なりに定義を試みています。
・「読む」とは「読もうとすること」であり、「読めている」とは「読もうとすること」によって得られた信念である
ここで私は信念という言葉を使用しました。それは完璧に客観的で正しい「読み」など存在しないということを含意しています。徹底した懐疑的立場に立てば、他人(の言う)ことなど自分には理解できないはずです。なぜならそれは自分ではないからです。どれだけ長く親しくしている友人でも、ちょっとした出来事でそれまで知らなかったその人の本性に触れて、絶縁してしまうこともあります。友人でさえそのようなことがあるのですから、極論を言えば、他人の書いたものなど理解できるはずがないのです。
ですが、我々はどうあっても人間なのです。好奇心の塊。そこに他者が居れば興味をもちます。「どんな人なのだろうか?」「敵か味方か?」などなど。そして話しかけ対話し、共存しようとします。書物、文章の類でも同様です。そこに何が書かれてあるのか、いったい誰が何を言おうとしたのか。それを読もうとします。人類が文字を使用するようになってから、文字による伝承が始まりました。これは素晴らしい発明です。それまでは伝えたいことがあれば、生きて口伝しなければならなかった。死んだとしても自分の言いたいことを言い続けることができるのです。
苦労してこれらを読んでみませんか、ということなのです。文章はすべて読まれたがっています。
ほかでもない、この文章でさえも。