勉強法

慣れてしまえばということ

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衒学趣味の独学者

習慣の力は恐ろしい。裏を返せば、慣れれば何も恐れることはない、と言うことができる。

引用に引用を重ねられていようが、孫引きの過ちを犯そうとも、やはりこの逸話は引いておきたい。医学的な証明はさておき、習慣というものについて興味深い示唆があるように思われるのである。

 

まず第一に注意すべきことは、子どもは冬であれ夏であれ、あまりぬくぬくと着せたりつつんだりしないことである。私たちが生れたとき、顔が身体の他の部分より丈夫だということでは決してない。それが丈夫になるのはただ習慣によるだけであって、そのために他の部分よりは寒さにも耐えうるようになるのである。それゆえかのシジアの哲学者はアテネ人から、どうして霜や雪の中を裸で歩くことができるのかとあやしみ尋ねられたとき、きわめて意味深長な答をしたのである。彼曰く「君は身を切るような冬の寒さに顔をさらして、どうして我慢できるのかね」アテネ人は「顔はもう慣れています」と言った。するとシジアの哲学者は「ぼくの身体全体が顔だと思ってくれ給え」と答えたのである。私たちの身体は、はじめから慣らしてしまえは何にでも耐えうるものなのである。(ジョン・ロック 『教育論』梅崎光夫訳)

 

我々、つまり、私とあなたがたのうちのひとりひとりは、どのような習慣に浴している、あるいは浸かっているのでしょうか。良い習慣でしょうか、悪い習慣でしょうか。

例えば皆さんは朝、歯を磨くかと思います。朝の歯磨きは習慣で、朝どうしても歯を磨きたくないということは滅多にないでしょう。これは良い習慣で、私からすると羨ましく思います。なぜならば、私にはこの習慣がなく、意識して歯を磨こうとしないとついつい忘れてしまったり、あるいは面倒くさがってやらなかったりするからです。

習慣は、良い意味では継続力と言えそうですが、悪い意味では惰性の行ないと言うこともできるでしょう。つまり、ただただ習慣であるがゆえに、それを行なっており、その行ないの意味や目的を意識していないということです。

習慣は、一度身体に染み付くと、次第に凝り固まっていきます。柔らかで柔軟な頭の体操によって、それをほぐしていく必要もまたあるのです。その頭の体操とは、【考える】ということです。立ち止まって【考える】ということです。Stop to think です。Stop thinking ではありません。

我々は考えているようでいて、ただ周囲の意見を追従するだけであったり、先入観に従って判断しているだけだったりすることが多いのです。どうでしょう。私は以前大手映像予備校に勤めておりましたが、大半の生徒はメモを取りません。しかし板書だけはしっかり取るのです。これはおそらく小中学校時代にそう教わり、またノート提出などあったために、板書通りに書くことが素晴らしい、あるいはそうしておけば大過はないだろうという習慣に依存した振る舞いだと言えるでしょう。

小中学校の教育が悪いのではありません。特に公立小中学校の現場では、まず座って先生の話を聞き、ノートを取ることが目標とされるからです。授業中に立ち歩いたり、UNOなどしたりしている生徒に対して、先生の話すことをメモするなどは遠い目標ですから。まずは達成できそうな近い目標から、ですね。

皆さんに考えてほしいのは、今何のために何をしているのかということ、その行為は目的のために最大量の努力をしていることになるのか、ということです。人間は怠惰です。どうすれば、サボらないようになるのか、どうすれば、どうすれば…その点を考え続けていく人こそが最後に栄光の日を浴びるのです。

 

考えることが習慣になってしまったら…?
それはまた極めてパラドキシカルな。