こんにちは、京大A判おっぐです。
模試の嵐が未だ吹き荒れる11月下旬をみなさんいかがお過ごしですか。
さて、この世の中には数学(というより論理)が苦手な人がたくさんいます。論理というのはいわば議論のルール。これが上手くできないと、数学の論証問題が解けないのはおろか、人とまともな議論を進めることすらできません。みなさんもTwitterで間違った論理を繰り出して議論を大荒れさせているアホをよく見かけるでしょう?笑
論理が苦手な理由の1つとして、日常的に使う「論理(もどき)」と、厳密な議論で求められる「正しい論理」の間に潜む違いに困惑してしまうことが挙げられると思います。
最近、論理の国に住む私のお友達が来日してくれています。今回から複数回に分けて、彼のお話を通じて論理のルールの違い、用語の意味の違いについて見ていきます♪
大学合格に「必要なもの」を教えてもらったよ
論理の国の友達が「入試合格に必要なもの」として挙げたものは、どれも一見わけわからない条件でした。しかし、それは論理としてはどれも正しいものなのです。
論理を扱う上で「必要であること(必要条件)」とは、あることを成立させるために「必ず」成立すべきことを言います。逆に言えば、これが成り立たなければ目標の命題が絶対に成立しない、そんな条件のことです。
願書を出すとか、試験中に試験官や周りの受験生を殴らないとか、これらの条件は少なくとも達成しないと大学合格は不可能です。ですので論理の国の友達が挙げた事柄はどれも「必要」なのです。
ところで、「必要であること(必要条件)」は、これの成立によって目標が達成されるかについて一切分かりません。例えば、願書を出したからと言って大学に落ちることも普通にありえます。
一方で、「十分であること(必要条件)」は、これの成立によって、あることが絶対に成立する、そんな条件です。例えば、入試本番で満点を取ると、入試に絶対に合格できます。ここで、本番に満点を取ることは、入試合格のための十分条件となります。
ところで十分であること(十分条件)は、成立しないと目標が絶対に成立しないのかと言えばそうとは限りません。入試で満点を取らなくても入試に合格することはあります。
最後に「必要十分条件」は、これが成立しなければ、あることが成立しない、一方でこれが成立すれば、あることも成立する、そんな条件のことを言います。必要条件の要件も十分条件の要件も満たします。
必要十分条件は、目標の命題の成立と一寸の狂いもなく連動するもので、ある意味「全く同じもの」です(論理の世界では「同値」と呼びます)。ですので、人々があることの必要十分条件を聞いても「それって当たり前だよなぁ」ってなることが多いです(結婚したかったら婚姻届を受理してもらえ!とか)。当たり前じゃない必要十分条件がたくさんある数学の世界はどこか独特で面白いですね。
この世は、必要・十分・必要十分が曖昧すぎる
先ほどの会話で、おっぐは京大合格に必要なものとして「センター8割5分」などを挙げていましたが、これはもちろん必要条件ではありません。なぜなら、センターで8割5分を取らなくても2次試験で高得点をマークすれば京大に合格できるからです。では、十分なのかと言うとそうでもありません。2次試験を白紙で出せばセンターで8割5分でも普通に落ちます。
つまり、おっぐが挙げた「センター8割5分」という条件は、論理の国の人からすれば必要でも十分でもない、なんでもないものに過ぎないわけです。
しかし、日常生活には必要でないのに「必要」と謳うものや、逆に十分じゃないのに「十分」と謳うものもあります。他にも、必要条件なのに十分というものやその逆など、「必要」と「十分」の区別が曖昧なことも多々あります。「必要十分」なんて言葉はもはや使われないザマです。
↑p10〜20からしか出さないんだったらp25やらなくても全問正解できるはずだろボケ(p10〜20からしか出題されない中で、p10〜20に加えてp25もやるのは、高得点を取るための十分条件)
日常の使い方と区別して考えるクセをつけよう
「必要」「十分」の言葉は、日常生活ではとてもテキトーに使われがちです。ですので、日常生活のテキトーさと同じノリで数学の問題に立ち向かうと、厳密さの違いにボコボコにされます。
数学(特に論証問題)に取り組む際は、「必要」「十分」「必要十分」の使い方に細心の注意を払いましょうね!
ちなみに、論理にある程度強い人は、日常生活においてもこれらの言葉を厳密に使い分けがちです。普段から「必要」「十分」「必要十分」を厳密に捉えることこそ論理的思考のクセを作る1つのコツなのかもしれません。
次回は、「または」の使い方に関するお話を扱います。