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究極のノート術

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衒学趣味の独学者

確かにノートをひとつのアクセサリーと考えている人たちがいる。彼あるいは彼女たちはノートを発色の良いペンで飾り、そして殊更に丁寧に書く。挙句の果てにはそれを各種SNSで発信する。このSNS時代以前にもそういった人種はいた。ノートはとてもきれいだが、成績はさして良くない。それゆえに次のような噂が広まる。「賢い人はノートが汚い」、「ノートをきれいに書いたからといって成績は上がらない」などである。しかしこのような言説は、ノートを純然たる成果物としてしか、つまり自分の努力めいたものを披瀝するためのものとしか考えていない、先ほどの哀れな人種にしか当てはまらない。我々はなぜノートを取るのだろうか。

 

きっとひとつしか答えはないだろうとお思いになるだろう。それは、板書にしても口頭の説明にしても、我々人間はそれらに触れたそばから忘れていく生き物であることをよく知っているから、それらを忘れてもいいようにするためである、と。であるとすれば、ノートがきれいかどうかはそれを見返すときの、判読性・視認性に優れているということになろう。とどのつまり、ノートの持ち主本人にとって見やすいものでありさえすればよく、それ以上他人のノートに口を出す理由がなくなってしまう。とすれば、ノート術などという他人のノートの取り方に難癖をつけるこの記事など、そもそも存在の意義を維持しえない。

 

我々はなぜノートを取るのだろうか。
それは考えるためであり、理解するためであり、活動し続けるためである。
よい講義はたいてい論理的で、適度にその論理を脱線しつつも、その転轍は軽やかであり、それを感じさせない。よい講義は、我々に思考を要求する。教師の思考を追体験的に思考し直すことを要求する。よい講義では我々は息つく暇ない。我々は教師の言っていることを理解すると同時にそれをメモし、我々は教師の言っていることをメモすると同時にそれを理解する。この矛盾は実践かつ体感していただかなければ説明がつかない。時に我々は書くことによってそれを理解するのである。ノートに思考の痕が見られるかどうか、七転八倒したその痕跡が痛々しくも伝わってくるかどうか、それがよいノートとそうでないノートとの区別であるように思われる。(因みにあまり出処の分からない研究成果を援用することは厭わしいが、書くことによって理解力、記憶力が向上するという実験結果が報告されている。少なくとも私はこの説を実感を持って支持したいと思う。)

 

多分に主観的な判断と思われるであろう。しかし、人間の理解は究極的には主観的である。いや少なくとも、人間の理解はまず第一に主観的であって、それを起点にして客観的理解の地平を臨む。講義を一方的な情報伝達と考えるとノートは失敗し、価値のない紙束と化す。単なる情報の束であれば、印刷して売ればよいはずである。教師の思考をなぞったり、教師から与えられる情報について自分の解釈を形成する。それをメモする。これは一人ひとり違っていて、印刷して売れない。もし、ノートの達成感が、その見た目の美しさにではなく、その格闘に対する郷愁にあるとすれば、もうそのノートはほぼ役目を終えているのかもしれない。あなたはノートを飾り立ててきれいにしたのではなく、あなた自身の思念を美しく鍛え上げたからである。そのとき美しいのはあなたの所有物ではなくて、あなた自身であることは言うまでもない。

 

究極のノート術

ペンを握りつづけて、書くこと、考えることをやめないこと


ボールペンはたくさん書いても疲れない。

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